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春香手術

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 はしがき
 
 二○○八年に起こったニュースとして、春香が手術したことをクリスマスカードに書いた。私にとっては今でも記憶が生々しい、昨年最大の事件だったのである。
 ところが、実際はそんなに珍しいことでもないらしい。何人もの方から「うちの子も手術しました」とのお便りをいただいた。入院・手術を経験する幼い子供は、実際かなりの数にのぼるようなのだ。私自身は出産時が初めての入院だったくらい病院には無縁な人間なので、そういった事実を知らなかった。
 中でも驚いたのは、私の従妹の可奈さんの体験談で、日本の小児病棟は子供の面会が謝絶だそうである。可奈さんは次男の壮太くんの手術に付き添っていたので、まだ四歳の長男・圭太くんは、母親である可奈さんになんと二週間も会えなかったそうだ。家族親戚一同がほぼ毎日のようにやって来るという、大変にぎやかな病院にいた私には、とても信じられない話である。

 今年もまた夏がやってきて、私は去年起こったことを日付と共に正確に記憶していることに気づいた。今年の七月二十一日(去年のこの日が、すべての始まり)、春香は有り難いことに健康で、子どもカンフー教室に通っていたのだった。その後、三十日(去年はイタリアへ出発した日、今年はプール教室に参加)、そして八月四日(去年のこの日に手術。今年は熱でプールを休みはしたが、おなじみの扁桃炎。翌日には回復)と、いちいち思い出しつつ、夫にさえそのことを言えなかった。反省はしていますが、もうそっとしておいて下さい、そんな気持ちである。
 それでも、起きたことを途中まで書いておいて、それがそのまま未完だったことに気づいた。七月二十一日から八月いっぱい、ちょうど日本の夏休み期間にあたる長期療養だったので、克明に事実を追っていったら、とてつもない長文になりそうなのだ。幼稚園のこと、言葉のこと、ほかにも書くべきことはたくさんあるのに、今になって四歳の面白くもない出来事を書いて掲載するのもどうかと思うし、何よりこれは私にとって育児中最大の汚点。もう記憶から記し去りたいとさえ思える。
 が、せっかくだから、何とか最後まで書いてみようと思う。春香が今でも生きていることを感謝したくなるのは、あのことがあったからだと思うから。そう、普通の母親ならそんな体験などなしに、我が子を大事に育てていけるのに。私には、そこまで荒療治が必要だったということだ。

                *  *  *  *  *

 八月四日月曜日。その日もローマは暑かった。道を歩いていると、じりじりと照りつける太陽が熱い空気を上から押しつけてくる。ローマの古びた家々、遺跡のかけら、ゴミが散らかった道端など、ぐらぐら沸騰しそうな、そのローマの街を、私は冷房の効いた病院の窓から眺めていた。そして、ハンカチを握りしめ、声を殺して泣いた。誰にも涙を見られたくなくて、仕方なく窓の外を見ていたのだった。
 もしも、手術がうまくいかなかったら、もしも全身麻酔のまま目を醒ましてくれなかったら。もしも、春香が今、ここで死んでしまったら。私の人生は、もはや何の意味もなくなってしまう。それほど私というものは、くだらない、価値のない、生きていても意味のない人間だった。春香の存在だけが、ただそれだけが尊くて、自分というものの卑劣さ、無力さ、無知、怠惰、残酷、軽薄・・・・・、どれだけ並べてもまだ足りないくらい、自分を責めた。
 たった一つ、こんな私が人生の中でなしとげた意義あること―――それは春香を産んだことではなかったか。それなのに、どうしてここまで冷酷になれたのか。まったく自分で自分が理解できなかった。
 私は強情だったのだ。私は意地でも、義父母に従うまいと決めていた。言い訳が許されるなら、いくらでも言い訳できる。それでも実際のところは、「あの人たちの言う通りにはしたくない」、その一点張りだった。娘の痛みを思いやることもなく。
 それが原因で、春香は急性虫垂炎から腹膜炎になり、あと一歩で手遅れになるところだった。

(この続きは、書籍にてどうぞ)

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三歳の春香の言語状況

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 前回、春香の言葉について書いたのは、スイスに越してきた後だった。現在三歳、もうすぐ四歳という時に日本に行く予定だということで、慌てて書いている。

 このひと、英語しゃべってるね

 まず、これはもう最後になると思うが、春香の英語について。知っている単語は、ほとんどすべてビデオで覚えたもの、という状態になってしまった。日本語のビデオなのに、なぜか英語を学ぶコーナーがあり、それで覚えるのである。英国で買ったビデオもあるのでたまに見せるが、それだと単語を拾えないらしく、歌を少し覚える程度。要するに、英国生まれという影響はもはやまったく見られず、ほかのお子さんと変わらない。
 ただ一つの特記事項は、バスや街中で、英語圏出身の親子がいて話していたりすると、「このひと、英語しゃべってるね」と言うようになったこと。ということは、聞いていて、これは何語かという区別がある程度はついているはずなのだが?? まあ、とりあえず、先をお読みいただきたい。

 さて問題の日本語だが、去年の夏に一ヶ月日本に滞在した。語彙はもちろん増えたにしても、特に大きな変化は見られなかった。特記事項をあえて挙げるなら、子供らしい悪い言葉を多く覚えてしまったこと(今ではその多くも忘れてしまっているが)。
 名詞のみならず、乱暴な表現というものまであって、なぜか「……って言ってるんだよ!」と言うのを覚えてしまい、それが癖になって、周囲に多大な迷惑をかけた。そんな強い言い方をどこで覚えたのか、いや、実家に私と父母といて、時々姉・弟家族も来たら、絶対にそこで聞いたに決まっている。平川家は(義兄と義妹以外)全員声が大きく、しかもかなり感情的なのだ。とはいえ、「……って言ってるんだよ!」を春香がそれほど頻繁に耳にしたとは思えないのだが。聞くたび非常に気に障るので、やめるよう何度も注意したが、癖になっていて、なかなか直らなかった。
「……って言ってるんだよ!」と言うのは、さんざん言った後で、相手の理解が得られないことにイラつき、やむを得ず発してしまう、そんな表現ではないだろうか。それを開口一番、「はるか、テレビみたいって、いってるんだよ!」とくるので明らかに誤用なのだが。そんな乱暴な表現のわりには、表情も口調も特に迫力はないのだが。いずれにせよ、聞くに堪えない。これには参った。

 ドレスに言葉は要らない

 スイスに戻り、十月に入って、ドイツ語学校の開講日が近づいてきた。私は春香に毎日、「もうすぐドイツ語の学校に行くんだよ。早く行きたいね。またお友達みんなと遊んでね」などと言い聞かせた。
 ところがある日、「はるか、ドイツ語のがっこう、いきたくないの」と言い出すではないか。あれほど楽しそうに通っていたのに。理由を聞いてみると、洋くんがもう来ないからと言う。洋くんとは、託児所唯一の日本人で、春香とは子供会、託児所、ひよこで一緒だった。けれども帰国が迫っていたので、コースは継続しないとお母さんが決めてしまわれたのだ。
「でも、新しいお友達がきっとできるよ。ほかにもお友達いっぱいいるでしょ」「でも・・・、はるか、洋くんがすきなの。洋くんがいないといやなの」実際のところ、洋くんは戦いごっこ好きの典型的な男の子で、春香とそれほど親しく遊べるわけでもない。一緒にじゃれ合ってかけっこをすることはあったが、ずっと一緒にくっついて遊ぶなんてことはなかったのだ。春香が洋くんに好意を寄せるのは結構だが、いないなら嫌だと言うほど、心奪われているとは思えない。私が戸惑っていると、やがて、春香はポツリと言った。「はるかね、ドイツ語しゃべれないの」
「そんな、春ちゃん! ドイツ語なんかね、毎日聞いてれば、わかるようになるの。しゃべれないからこそ、学校に行って勉強するんじゃん。しゃべれないからって行かなかったら、ますますわかんないよ」私はまるで自分に言い聞かせるかのようなことを言った。「これからずっと、スイスに住むのに! ね、春ちゃん、一緒に学校行こうよ」すると春香は顔をしかめ、こう言った。「はるか、おうちでべんきょうするから、いいの!」(何を! 家でできないから、高いお金を払って通学するのではないか!)
 まさか春香がドイツ語を理由に行きたがらなくなるなど、思ってもみなかった。託児所の初日、私を振り返ることなく、さっさとみんなのいる方へ歩いていった春香。その背中を見ながら、私は誇らしい気持ちでいたのに。言葉がわからなくても、お友達と遊べるんじゃなかったの?
 春香が行くのを嫌がるのなら、私もくじけそうになる。毎朝、行きたくないと泣く娘を引っ張って連れて行く鉄の意志が、私にはないのだ。

(この続きは、書籍にてどうぞ)

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授乳より献血

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 今年も、残すところあと少し。夫の就職活動が長引いた関係で、英国滞在を延長することになった。ところが許可申請の際にパスポートを提出したため、海外に出られず。里帰りができなくて寂しい年となった。トイレトレーニングも始めてはみたものの、予想外に難航している。さらに台所へ蟻が侵入、壁や床の穴をふさいでもふさいでも現れる黒い軍団との果てしない戦い。その他にも思い出したくないことはあり、一時は厄年か天中殺かと途方に暮れた(知ってもどうにもならないので調べていないが)。
 笑顔を作ることもしんどくなってきて、人と会うのも面倒なほど。日記の中で、小さな喜びを数えることが日課となった。あの世紀の楽観主義者である夫も一時はイライラしていたくらいである。
 そんな両親に八つ当たりされながらも、春香は相変わらず明るい笑顔を惜しげなく振りまいていた。闇に包まれた家庭を明るく照らす、蛍光灯のような娘なのだ。春香がいて本当によかった。この時ばかりは心底から娘の存在に感謝したくなった。

 街角で偶然出会った旧友

 さて、暗い日々からほんの少しだけ晴れ間が覗いてきた、そんなある日。またもや、献血のお知らせが届いた。来週の火曜日、シティセンターのホールが会場とある。
 私は数日前にある決心をしたのだが、これにより、この決心はますます確固たるものとなった。

 日本で、私は喜々として献血を続けていた。誤解される前に言っておくが、人々のお役に立ちたいからというのではない。立ちたくないとは言わないが正直に言うと、ただで飲食できるからである。ケチな私は、いくら疲れていようが喉が渇こうが一人で喫茶店に入ったりしない。私にとって献血ルームは、言ってみれば無料喫茶店なのである。
 順番を待つ間、冷房の効いた部屋で、ゆったりと座って雑誌なんぞ読んでいられる。自分の番が来たら、横になってうたた寝もできる。中には自分専用の小型テレビが備え付けてあるところもあり、まるでビジネスクラスの機内である。献血後は、お疲れさまでしたという暖かい言葉と共に、好きな飲み物を選べ、おいてあるお菓子が食べられる。景品も頂けて、血液検査の結果まで後日送られてくる。こんないいことずくめの献血を、どうしてやめられようか。
 海外に住むようになってからも、私は帰国のたびに献血に努めた。定期的な健康診断をしない身としては、こんな血液検査でも気休めになるのである。かくして私は献血二十回、三十回と記録を伸ばし、ティッシュやバンドエイド、バッジなど、景品のコレクションも増やしていった。
 ところがある日突然に、私の献血の喜びは終わりを告げた。狂牛病の影響で、英国に半年以上滞在した者の血液は受け付けないと言われてしまったのである。嘘をつくわけにもいかず、私はあきらめて帰途についた(が、しっかりとお茶菓子はいただいた。勧められたので、断れなかった)。
 当時、私は英国留学からイタリアに戻り、ローマで働いていた。私の知る限り、イタリアには街頭で人々に呼びかける献血車のようなシステムはなく、自ら病院に出向くしかない。忙しかった私は、いつしか献血への想いを失くしてしまった。
 
 その想いが去年、突如よみがえった。ここダンディーの街を歩いていて、シティーセンターホールの前で献血を呼びかける人を見た時は、旧友に偶然出会ったような気がしたものである。その日は時間もあったので、私は数年ぶりに献血の世界へ足を踏み入れた。ここ英国なら、断られたりしないだろう。
 ところ変われど、献血は変わらず。ここでもボランティアらしき人が、親切に誘導してくださる。私は当時一歳を過ぎた春香を連れて、会場へと入っていった。歴史的な建物の中に設置された広い会場では、人々が腕をまくって献血に参加している。私は久々に心が沸き立った。
 ベビーカーを横付けして席につき、まずはアンケートに記入する。そして名前を呼ばれ、少量の血をとられ、血圧を測り、簡単に話をする。私の血は濃くて良い血だと、何度かほめられたことがある。が、低血圧で断られたことがあるので、OKが出るまでは安心できない。
「お子さんは、おいくつですか」
「一歳です」
「現在妊娠していますか」
「いいえ」
 これらのやりとりに、余裕を持って答える。ところが、事態は予期せぬ方向へと向かった。
「現在授乳していますか」
「はい」
「あ、そうなの。じゃあ、やめておいた方がいいわね」
「えっ、あの、一日に一、二回くらいで、量もほとんど出ていないと思うんですが」
「それでも、血をとるんだから。授乳が終わったら、また来てください」
「・・・はい・・・」
 それでも、やっぱりお茶菓子はいただいた。会場を出る人は、献血したか否かに関わらず、全員ティールームへと誘導されるのである。私も遠慮なく席につき、ミルクティーと一緒にショートブレッドをほおばった。隣のテーブルでは、まるで喫茶店のように、おばさんたちが席を陣取って話に花を咲かせていた。

(この続きは、書籍でどうぞ)

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パパパ・その後

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「おとーと!」

 毎朝、春香は目覚めたと同時に何か言う。「マンマ」が多いが「くまたん」、「はいどじょ(どうぞ)」などと言うこともある。夢の続きかと私は気にも留めず、「おはよう」とは言うものの低血圧の私はすぐには目が開かない。
 ところが、夏のある朝のこと。春香の一言で私はぎょっとして目を開けた。いきなり「おとうと」と言ったのである。実はちょうどその頃、二人目ができたのではという疑いが持たれていた。上の子がお腹の中の子の性別を当てるという話を聞いたことがある。これは、もしかして・・・・・?
 その謎が解けたのは、二人目はなかったと判明した数日後のことだった。なんと春香の言いたかったのは「おとうさん」だったのである。さ行が言えないから「~さん」と言えるはずもなく、「おと・・・」まで言って、あとは引きずられる形で「おとーと」となったのだった。もちろん、それがまったく違うものを意味するなど露も知らず。そもそも弟という概念も言葉も知らないのだし、考えてみれば出来過ぎた偶然だった。あの朝、夫が先に床を離れたので、「お父さんがいない」と言いたかったのだろう。
 それ以来、春香は「おとーと!」と言うようになった。その意味も口調もおかしくて、春香がところ構わず大声で叫んでも、制するのをつい怠ってしまった。そしていつからか、それは「おとーたん」に変わった。
 それに対し、私のことは「マンマ」と呼ぶ。イタリア語ではあるが、呼ばれ始めた当初は「あらあ、春ちゃん、マンマって言ったの!」といちいち感動していた。最近「おかーたん」も発音だけはできるようになったので、一人称で「お母さんはね・・・」と言い続けてはいるが。
 どうしてこうなったかというと、夫は春香の前で私のことをマンマと呼ぶからだ。私は春香と話す時、夫のことをお父さんと呼ぶので、その結果こうなった。「おかあさん」より発音が易しいから「マンマ」というのはわかるが、「パパ」ではなくあえて「おとーと」と言ったのは、やはり一人称よりも二人称、三人称のほうがわかりやすかったのだろう。
 というように、今は何でもリピートすることによって言葉を習得している春香だが、ただ一つ例外がある。「マンマ! マンマ!」と私を探し始めるともういけない。抱っこしている夫が「マンマじゃない、パパ! パパだよ、パパ!」と言ったところで、春香の「マンマ!」は止まらないのだ。身をよじって叫び続ける。
 実はこの夫こそ、パパと呼ばれることを切望していたのだ。いくら「おとーと!」や「おとーたん!」と呼ばれても、そのことに対して感激はしていない。やはり「パパ」もリピートはできるが、しかるべき状況の中で自発的には出てこないのである。私の「おかあさん」に対しての執着より、夫のそれは激しかったらしい。
 それだけではない。最近の夫は、朝から晩までこのマンマ攻撃が繰り返される「母親全盛期」を迎え、苦悩の日々を送っているのだ。
 
(この続きは、書籍でどうぞ)


表紙のイラストについて

春香とリス

 私はこどもの頃から絵が下手でした。お姫さまを描くときも、まず頭を描いて、次に首を描いて、そのまま下へおりていって腕をくっつけると脇の下が異様に広く開いてしまう、という絵をいつも描いていました。
 同じ環境で育ちながら、姉はお絵描きが上手で、小学生の頃はお姫さまもマンガのように描いていましたし、大きくなるとまるでサンリオキャラクターのようなかわいい絵をオリジナルで描くことができました。
 ある年の誕生日、姉に手作り紙芝居をもらいました.それは「星の子ルル」とかいうタイトルだったと思うのですが、そのまるいタッチの絵,全体の完成度の高さは今もはっきり覚えています(きっと実家のどこかに今もあるはず)。
 そんな姉の作品を横目で見ながら、私は私で童話の創作にいそしんでいました。挿絵を必ず添えていた私は,お姫様が結婚するというその話を書き,空いたスペースにはドレスを着たウサギの絵を添えました.相変わらず両肩からは,やけに左右に張り出した二本の腕が伸び,それはまるいカーブを描いて背中へ行き,両手を後ろで組んで,ウサギは笑っていました。

 姉に限らず、以前から、私の周囲には何故か絵のうまい人が多かったのです。イラストレーターのこうのあきさんは、中学三年のクラスメイトです。バレーボール選手の似顔絵などを、すでにプロ並みの腕前で描いていました。
 Mさんは建築家ですが、イタリア留学時代に描いた作品で個展を開いています。
 スコットランド時代の友人Nさんも、ただの趣味といいながら素晴らしい作品で、展覧会に出品していました。二人の娘さんに絵をねだられるたび、家事の手を止めてちゃんとリクエストに応じる姿が印象に残っています。
 Tさん、Mさん、Rさんなど、不思議なことにグラフィックデザイナーも私の周囲に多いのです。
 Toshi Asaiさんは従妹で、シアトルに住んで活動中です。肖像画などの,目つきが印象に残る非常に独特な世界を表現していて、彼女の作品を初めて見たときはなんとも新鮮な衝撃を受けました。実際のToshiさんはエキゾチックな雰囲気の、物静かな女性です(最近は会っていないのですが)。胸の内に秘めていたものを覗くことができたような、そんな興奮がありました。

 そして本山理咲さんは、中学の部活仲間です。当時、決して真剣とはいえない名ばかりの活動内容だったし(みんなで部室にこもり、ひたすらふざけて遊んでいた)、よく一緒に帰宅していましたが、真面目な話をしたことなどただの一度もありません。ところが社会人になり、私が海外に住むようになった後、部活仲間でなぜか彼女とだけ交流が残りました。
 漫画家としてデビューしてからは、わざわざ航空便で作品を送ってくれました。中でも私は、ちくちゃんの豆本が異様に気に入ってしまい、ずっと手元に置いて眺めていました。お話はもとより、どのイラストも色使いが絶妙な鮮やかさ。豆本だからすべてがミニサイズなのですが、細やかなタッチで、登場人物や細部一つ一つを眺めていくと、ちくちゃんの世界に入り込めます(森の中の動物たちと、楽しいお茶会!)。もちろん、娘にも何度も読み聞かせました。
 「春香だより」の自費出版が決まった時、表紙のイラストは本山さんにお願いしたいと思いました。図々しいと承知で、ちくちゃん風の娘の似顔絵を描いてもらえたら・・・と夢はふくらみ、かなり早い段階で編集者さんにも伝えて了解を得ていました。
 
 実際に作業に入ったら、おびただしい量の資料画像を送りつけてしまい、悪かったと思います。が、思い通りのイラストを仕上げてもらえ、大満足です。
 スイスの街並みは、春夏秋冬の色分けがしてあるのをみなさま気づいていただけましたか? これは本山さんのアイデアによるものです。バーゼルの中心街は大都会ですが、田舎部はこのように素朴な街並みを見ることができます。
 リスは、今住んでいる家の周辺では見かけないのですが、前の家では庭でよく遭遇していました。毛の長いしっぽが特徴の、ヨーロッパ種です。
 ウラ表紙にちらりと見える、謎の三人はファスナハト(カーニバル)の行列からです。バーゼルはファスナハトが有名で、こんなお化けのような格好をした大の大人たちがお菓子をばらまき、バンド演奏をして町を練り歩くのです。
 おまけに、春香はお気に入りのハンドバッグまで丁寧に描いてもらえました。春香を直接知る人は、「あ!これ、ドラちゃんバッグだね」と言ってくれます。




禍転じて再び親バカと為す

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 子どもは親を捨てない

 道端で、母親が子供を叱りつけている。「もう勝手にしなさい!」と言い、その場を去ろうとする母親。それに対し子供は、決まってワアーンと泣き出し、母親を追ってすがりつくのだ。私には、それがいつも不思議だった。
 例えば大人の私なら、誰かに怒鳴られたりしたら予期しなかったことで言葉を失うか、又はむっとするか。父は今でも私を叱るが、つい口答えして喧嘩になってしまう。後で一人になれば泣くこともあるかもしれないが、とにかく怒鳴ってきたその相手にすがりつくなど、考えられない。
 それが小さい子供となると、自分を大声で叱りつけ去ろうとする母親に対し、行かないでと泣いてしがみつくのだ。うちの春香など、「だっこだっこ!」と必死で訴えてくる。
 実際に子を持ってみて分かったのだが、どうやらあの不思議な場面とは、悪いことをしたとはわかっておらず、よって反省などなく、お母さんが怒った、いつもの優しいお母さんはどこへ行ったの、という、ただ単に悲しみの表現だったらしい。お母さんにはいつも甘えていたいから、時に目をつり上げて甘えさせてくれないとなると、もう絶望的になって泣くしかない、というところか。

 山崎房一という人が、著書の中でこう述べている。離婚をしたり養子に出したりして、親が子を捨てるという現実は、実際に起こりうる話ですし、子どものほうとて本能的にそれに気がついているのです。一方、子どもはけっして親を捨てません。子が親を捨てるというケースは、そもそも社会構成上起こり得ないのです。
・・・確かに家出をするには経済力や人脈が必要なので、少なくとも十代後半にならないと難しいだろう。親がたとえ鬼であろうと、小さいうちは親にすがって生きるしか道がない。こんな私が、我が子にこれほど盲目的に愛されてしまう理由が、これだ。実は本能だったのだ。顔をくしゃくしゃにして舌たらずな口調で「おかあさん、だーいすき」などと言われてしまう。これがかわいくなくて、何であろうか。

 幼児春香の誕生

 そんな春香も間もなく二歳。ここに来て、少々雲行きがあやしいことがある。
 そもそも妊娠中、「親子間の摩擦や衝突を避けるために、子どもと二人きりで三時間以上いるのはやめましょう」というアドバイスを聞き、これをぜひ守ろうと思っていた。ところが生まれてくるとかわいいことこの上なく、もうずっと一生このまま二人でいてもいいとさえ思った。平気で一日に三十回くらい「かわいい」を連発していた、この私が、心からそう思えない日もぼちぼち出てきた。あれほど親バカだった私が、最近は二十四時間バカでいることはできなくなっている。それは何故か。
 そもそも春香のことをかわいいと思っていたのは、容姿に対してよりも「お母さんがいなければ生きていけない」という捨て身の愛情表現だった。春香にとっては私がすべてという状況が、私を有頂天にし、かつ責任感を持たせていた。私が叱れば大泣きしてすがってくる、そのひたむきさに心を打たれていたのだ。
 ところが、叱られても知らんぷりをするようになってきた。「ぎゅうにゅう、のむ」と言うので牛乳を温め、持っていってやると、もう飲まない。「ぎゅうにゅう、おいしくない」とのたまう。何が気に入らないのか、牛乳が入ったコップを手で押して床に落としたりする。私は怒り心頭、ハイチェアから乱暴に抱き上げベビーサークルに入れてしまう。昔はまるでこの世の終わりのように泣き叫んでいた春香も、今は一分後に泣きやみ一人で遊び始める。とぼけて「これなあに」などと言うので、思わず「そんなの知らなくていいっ!」と言ってしまう。いつにも増してにぎやかにしゃべり歌う、我が子の神経を疑いたくなる。
 おむつを替えようとする私から逃げ回った挙げ句「おとうさん、やる」と言うこともある。「あっそう、お父さんがやるの」と言って行こうとすると、今度は泣いて追いかけてくる。「おかあさん、やるの。おかあさーん!」 そこでやっと私の気がおさまるのだ。そう、はっきりいって私の権力が絶対でなくなったことが面白くない。これは成長した証拠なのだが、素直に喜べない。
 もう着せ替え遊びもさせてもらえない。「じぶんでやるから!」と言って私の手からTシャツを奪い、パジャマのまま両足をつっこんでもがく。「できなーい!」と言って助けを求めてくるまで、しばらくやらせておくしかない。タイミングを逃すと、今度はかんしゃくを起こして何でも投げつける。
 強力な武器だったはずのおっぱいさえ、機嫌の悪い時は何の役にも立たない。抱っこをしても何が欲しいか聞いても、泣き叫ぶばかりだ。腕の中で暴れまわるので、もう転がしておくこともある。しばらくすると、何をしたわけでもないのに泣きやんだりする。

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