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1月3日 珍しく、家にいた(4)「いない方がいいんでしょ!」


(前回からのつづき)朝からずっと春香といたので、もう頭痛がすると、非情な夫は本人の前で明言している。私もそれをたしなめる前に、つい共感してしまった。そう言われるのは春香にとって初めてでなないが、ショックを受けないはずはない。ふだん、私たちは唯一無二のいとしい娘を猫のように可愛がっているつもりだし、ほかにきょうだいもペットもいない、私は仕事もしていないので、両親の興味および愛情の対象はひたすら春香一人に向けられる結果となる。そして彼女自身、それを自覚しているはずなのだが。
 ふとした叱責の折に、「ふん。もう春香なんかいない方がいいんでしょ!」と拗ねて言ったりする。まるで以前から不安に思っていたことを、ここぞとばかりに吐露したような口ぶりである。それを聞くたび、私は不思議に思う。ふだんこれほど可愛がってやりながら、何故このようなあらぬ疑いをかけられねばならないのかと。両手でしっかりと抱いてやり、頭をなでてやり、時にはほっぺにチューでもしてやれば、いつでも満足そうな顔をするくせに。
 いや、ほかならぬ「ずっと一緒にいたので頭痛がする」などといった、私たちの無遠慮な発言が、春香の中にそういった疑心暗鬼の心を生み出していることは明らかである。私だって、例えば夏休み中、春香にキャンプの参加をすすめるのは、もちろん社会体験をもっとさせたいからだが、心のどこかでは自由な時間への渇望をどうしても否定できない。
 しかしスーパーで買って買って攻撃を受け、帰宅すれば同じCDを延々とかけて、ひたすら踊って歌っている娘と、半日も一緒にいれば誰でも音を上げる。唯一、漫画を読んでいる時だけは、静かにおとなしくしているし、少しは日本語の勉強にもなると信じるから、いつまでも読んでいてほしいのは山々である。が、ドラえもんはあまり教育的に良くない内容も部分的にあるし、暗いところで読んでいるのを見ると電気をつけろと言いたくなるし、姿勢が悪いと注意したくなるし、あまりに長時間読んでいるとつい「宿題はやったの?」と言いたくなる。それでようやく漫画を手放して宿題にとりかかっても、私に話しかけたり歌ったりしてちっとも集中しない。本当に漫画を読む時以外、何をしていても常に音声を発し、常に動いているので、たまに静かで姿が見えないと心配になって探しに行ってしまうほどだ。
 特に夫の不在時には、私が相手を一手に引き受けることになり、極度の疲労がたまる。かといって日本語で話しかけてくる娘を、適当にあしらってはいけない、ひとつでも多くの語彙を教えなければと応対してしまう私もいけないのだ(そんなことだから異様に依頼心の強い、母親依存症ともいえる子に育ってしまい、何をするにもまず母親に許可を求めてくるのである)。
 夫の方にそういった使命感はないが、とにかく一緒に買い物に行き、午後の遊びにも付き合ったからだろう。一日分の体力はもはや使い果たしたかのようで、それは私にもよく解かった。
 「ふん。もう、春香といるの、嫌なんでしょ!」そう言って春香は、少々プリプリしながらも、支度を始めた。父親の言葉に傷つきはしたが、やはり家にいても、もう両親は構ってくれないと悟ったらしい。洗濯物をたたんでいた私も、申し訳なさから立ち上がり玄関まで見送った。その後サンルームに行くと、庭を横切る春香がこちらを見上げるのが見えた。サンルームのちゃぶ台のテーブルクロスを片付けながら(汚れるから食事時にはテーブルクロスをかけようと夫が言い張る)、手を振る私を見て、向こうも振り返してきた。(つづく)

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1月3日 珍しく、家にいた(3)「クリスタル作りと子ども会」



(前回からのつづき)午後になり、春香は「手作りクリスタルセット」に着手、それを夫が手伝うことになった。春香は色鮮やかな石、とりわけ透き通った光る石が好きで、熱心に収集している。宝箱の中には、道で拾い、友達からもらい、秋祭りの屋台で買った 石の数々が おさまって
いる。遠足に行った山では、自分でクリスタルを掘り起こして持ち帰ってきた。少しでも光るものがあれば採集してきたという石を、大きいものはプレゼントにして、残った小さいものは窓際に並べた。大小さまざまな石のかけらたちは、ごく普通の灰色をした石であり、割って取り出したままなので磨かれているわけでもない。装飾品に興味がない私は、埃がたまるという理由で「そんなところに並べておかない! 箱かどこかにしまって!」と言ってしまう。しかし凝視すればクリスタルを含んでいると主張
する春香は、苦労して採ってきたそれらの石をどうしても飾っておきたいのである。
 石に対する、そんな春香の情熱を見た夫が、科学実験の要素を含んだこの知育玩具を見つけ、クリスマスプレゼントに買い与えた。パッケージには、紫色に光り輝くアメジストが描かれている。そんな見事な宝石が、2000円ほどの玩具で出来るはずがないと大人はわかるが、
春香は両目を輝かせ、早く作りたいと毎日せがんで、ようやくその日がやって来たのである。
 しかし、説明書は夫が苦手なドイツ語。最初からすでに難航している。それでも学術用語はイタリア語や英語と似ている単語が多いとあって、指定の薬品や水を入れ、2時間ほど格闘した末、何とか仕込みを終えた。あとは結晶ができるまで待つことになり、二つの容器は本棚の空いたスペースに置かれた。

 ちょうど昨日は金曜日、すでに3時を過ぎており、夫は春香に「子ども会へ行け」と言い放った。子ども会というのは、この町とその周辺に住む日本人親子の会である。半分しか日本人でない子が多いが、そこへ行けば日本語が聞こえてくる。せいぜい幼稚園に入る頃までの子たちが、遊んでいる横で母親はおしゃべりするという気楽な集まりで、春香は小4なのにまだ参加している。というのは会場が、我が家から徒歩1分という距離にあるため。この年になれば、クラスのお友達と遊ぶことが多いのだが、遊んでくれるお友達が見つからなかったり、このように休暇中だったりすると、金曜日は子ども会に行くことになる。
 きょうだいを切望していた一人っ子の春香は、一緒に遊んでくれる子がいるなら、かなり年下の子とでも喜んで遊ぶ。学校と違って自分がリーダーになれるからということもあろうし、日本語が聞こえる環境も面白いのだろう。
 もちろん私も都合がつく限り参加している。小さい子のお母さんたちとは、学校やテストの話は出てこない。おむつが外れないとか、夜ぐずって寝ないとか、そんな話ができるので、小学生の母親にとっては大変心がなごむ場となる。すでに通り越した難関を客観的に眺める優越感もあるが、そんなことに頭を悩ませていたこともあったなあという過ぎ去った日々へのいとおしさに目を細めたくなる。まったく異なる課題に挑んでいるお母さんたちに頑張ってとエールを送り、余裕を持って話を聞いていられる。
 しかし昨日は多忙および激しい疲労感と倦怠感のため、私はとても参加できる状況になかった。(つづく)

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1月3日 珍しく、家にいた(2)「越境買い出しとウナギの蒲焼き」



 (前回からのつづき)そうして一昨日、何とかスイスに戻ってきた。
たとえ一日、家にこもっていたとしても、夜はきっと熟睡できると確信し、もう無理はしなかった。休暇中で夫が在宅であるのをいいことに、買い物を始めとする外での用事はすべて夫に頼むことにした。私も もはや四十代後半。ゆっくり自分のペースでいこうと決めたのである。
 結局、昨日は荷ほどきと片付けに明け暮れた。たまっている洗濯物、イタリアから持ち帰った荷物(主に夫が買い込んだ食料品)等に加え、出発前の慌しさの中、荷作りしながら散らかしていったものなどをようやく片付けた。
 娘の春香は午前中、夫がドイツに連れ出してくれた。隣国のドイツへは、交通機関を利用して30分ほど。物価がスイスに比べると安いので、週末は夫がよく買い出しに行くのである(ちなみにフランス国境にも近い。ドイツほど安くはないが、おいしいものが手に入るので、使い分けている)。
 車のない我が家は、買い物となると各自重い荷物を持つことは必須であり、春香は行くのを嫌がることもある。が、本来は外出好きなので
たいていは喜んでついて行く。週末こうして半日でも一人の時間がもらえれば、その間は集中して用事に専念することができるので有り難い。
 しかし疲れのせいか、昨日は一人になってもあまりはかどらなかった。二人がドイツから帰ってくると、食料やら薬品やらわんさか買ってきて、テーブルや床の上にあちこち広げて置くので、また散らかった。私は
やる気を失って腰を下ろし、とりあえず座ったままできることをした。留守中に 来ていた新聞・広告の整理や、テーブルに 積み上げてあった
保留もののひとつひとつに真摯に向き合う等。

 昼食は、ウナギの蒲焼き。休暇前に買っておいた冷凍食品である。
こういう時に大がかりなメニューが決まっていると、せっかくの自分の時間も家族に奉仕する破目になり、なんだか損をしたような気になる。ウナギは温めてご飯に乗せるだけ、されど豪華、あとは野菜を一品汁物一品作ればよい。数少ない、貴重なメニューのひとつではないか。
 脂っこいイタリア料理が続いた後は、夫でさえ日本食が食べたいなあとリクエストしてくれる。イタリア滞在中に感じる、白いお米への憧れは、
私たち家族全員が共有している感情なのだ。ウナギもまた、充分脂っこい魚ではあるが、娘は「はるか、もし日本に住んだら、毎日ウナギ食べる!」と言うし、イタリア人の夫も「これじゃ少ない。今度は倍量を注文して」と言うし、私とてこの世でいちばん好きな食べ物はうなぎの蒲焼きだと、自信を持って言える。日本の魚介類を扱う通信販売(日本産ではないが、日本で食べられる魚介類のほとんどを揃えている)に出会って以来、おいしく食べることにはお金を惜しまない夫の許可を得て、毎月
魚を購入しているのである。
 この魚介類のみならず、海外で日本食を求めるとなると当然どこも高くつく。日本で主婦をしたことがなく、日本の物価をよく知らない私でさえ、こんなの贅沢だという思いはぬぐえない。しかし、結婚当初に比べると、夫の収入は格段に上がった。今では、スイスにおける給与水準の高さも手伝って、もうそろそろ少しぐらいの贅沢は許されてもいいのではという結論に達した。また、娘に日本文化を継承しなければならないからと、心の中で言い訳もしているのである。
 その春香は煮魚を食べると、皿に残った煮汁はいつもご飯にかけて食べる。もちろん蒲焼きのタレも、一滴でも多く欲しがる。こういう「具材の味が溶け込んだ汁で味付けしたご飯」など、日本の家庭料理の醍醐味ではないだろうか(イタリアの家庭では皿に残ったソースをパンでぬぐって食べたりするので、相通じるものはあるけれど)。
 (つづく)

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1月3日 珍しく、家にいた(1)「朝型人間になったこと、およびイタリア帰省」



1月3日。私にしては珍しく、一日中、家にいた。

 朝型人間へと生まれ変わって以来、日中は努めて体を動かすように
している。睡眠時間が短縮された分、夜の眠りを深くする必要がある
ため。郵便受けを見に行ったり、ゴミを出したり、地下の物干し場に
行ったりすることさえ貴重な運動の機会ととらえ、エレベーターでなく階段を使う。運動になると思えば、床のモップがけもやろうという気になる。時には、あえて遠くのスーパーまで歩いて行く。娘が病気で、自宅に
幽閉を強いられる日は、夫の帰宅と同時に買い物に出る。天気のいい日には、「こんな日に家にいるなんて」と体がムズムズ感じるように
なってしまった。
 以前は、5分歩いてスーパーへ行くことさえ面倒で、帰宅すると
ぐったりしていたのに。買い物に行く回数を減らすべく、家にある乾物や缶詰をもっぱら利用して料理していた。家にいればいくらでもすることが
あって退屈しないという、完全なインドア派だった私にとって、これは実に劇的な変化だった。とにかく夜眠れないほどつらいことはない。もう二度とあんな思いをしたくない、その一心で成し遂げられた変化なのであった。

 しかしながら昨日は、正月休みの帰省による疲れがとれず、どうにも参っていた。同じ里帰りでも、行き先が夫の実家となれば、自分のそれとはあまりに違う疲労感を持ち帰ることになる。休暇はイタリアだと言うと、間髪入れずに「いいなあ!」と羨望に満ちたまなざしを受けるのだが、私の状況はそんなイメージからはほど遠い。
 一人で出歩くのは危険だという義父母のもと、観光はおろか、友人に会いに行くという手持ちのカードを大事に使って何度か外出を許される
のみ。出かける際には何しにどこへ行くかを詳しく申告させられ、「車で送ってあげるからもう30分待ちなさい」などと言われてしまう(実際は1時間以上待つ)。一人になれる時間は早朝、トイレの中、あるいは人に会いに行く途中の電車の中しかない。あとはずっと家の中および
その周辺で過ごす。私たち一家が来て人口を増やすので、家の中は
雑然とする、そのストレスもさることながら、家族親戚の間で常にもまれ文化や育児方針の違いにぎゅっと目をつぶり、夫と二人になった時だけ不満をぶちまけ、あとはじっと耐え、出発の時を今か今かと待ち望むのだ。この待ち望む気持ち、出発の日に近づいてゆく喜びを、顔に出さないようにするのがまた一苦労なのである。
 夫と出会った当初、ご家族の温かさに感動して、「この人と結婚したら同居してもいい」とさえ思っていた。永すぎた春のために、やがて現実を知ることとなり、今では外国に暮らしている。これは確かに、私の願いが天に受け入れられたともいうべき幸運だった。

 そうして一昨日、何とかスイスに戻ってきた。(つづく)

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↓私はもちろん3時間睡眠なんて無理ですよ。でも参考にはなりました。↓

ネコの橋(5)「私の結論」



 (前回からのつづき)ところが、そんなある日。私は、その「ネコの橋」の上を、一匹のネコが当たり前のように渡って行くのを、この目で
見たのである! その茶色いネコは、まるで毎日この橋を渡ってどこかへ出かけていくことが 習慣であるかのような、堂々とした 渡りっぷりで
あった。「ネコの橋」とネコ語表記してあるわけではないが、これはきっとネコたち本人が見ても、自分たちのために架けられた橋だと 感じるのだろう。
 さらに友人Mさんにこの話をすると、なんと彼女も渡るネコを目撃したという。偶然、彼女とそのお嬢さんも同様にそれを「ネコの橋」と呼んでいた。そして私に向かって、あれはネコ専用の橋でしょ、と涼しい顔で
断言したのだ。イヌは、飼い主につながれているから人間と同じ橋でこと足りる。一方、飼い主なしで散歩に出るネコには、そういった専用の橋があってもいい、そう彼女は言う。
 やはり、私の推理は正しいのかもしれない! 

 もはや、市役所にわざわざ出向いて行く必要はないように思われた。もしも万が一、思いもよらなかった用途を知らされれば、不思議なこの橋も一気に現実の世界に引き戻されてしまう。それはあまりにも残念に思えたからである。
 たとえ今後、橋のスノコ張り替え作業に出くわしたとしても、もう質問したいとは思わない。あの時もきっと、謎が解けてしまうのが嫌で、真相を知るのが怖くて、私は質問しなかったのに違いない。日々の生活の中に、これくらいの不思議はあってもいい。
 これがネコの橋である とすることに、私も娘も まったく異存はない。
それなら、完全にネコのものであると見なし、その存在意義を尊重しつつ、今後もあたたかく見守ろうということになった。
 あんな立派な橋を人間どもに作らせ、さらにメンテナンスまでさせている。ネコはこの町で、それほどお高い身分なのかもしれない。ひょっとしたら、過去に大変なネコ好きの市長がいて、市の予算を使ってわざわざ小型の橋を作らせたのかもしれない。こんな、車も通るような危険な
「道路の延長」ではなく、ネコ様方はどうぞこちらの専用通路をお使い下さい。大体そんなところだろう。(おわり)

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ネコの橋(4)「ひょっとして夢だった?」



 (前回からのつづき)ここまで考えて、私ははっとした。大人が渡れるかどうか、などといいながら、床のスノコを 張り替えていたのは、確かに 大人の男性二人だった。ということは、彼らはその橋の上にいたのである。どうも記憶がはっきりしないが、橋に乗らずして外から手を伸ばし 作業していた、というのは考えにくい。スノコは床に釘で、というか太いネジで、しっかりと固定されているので。
 ということは、華奢に見えて、実際は大人二人の体重を支えるだけの耐久性はあるということだ。
 いや、しかし、もしやこの光景は 夢の中で見ただけなのでは、との疑いが 生じてきた。もしも本当にそんな場面に出くわしたら、私なら 絶対に近寄っていって、質問しただろうと思う。私のドイツ語は決して流暢ではないけれど、最低限のことは伝えられる。過去に何度か、工事の人に「何を作っているのですか?」と質問をした実績もある。そんな私が、あの謎に満ちた橋の、真相を知る 絶好の機会があったにもかかわらず 質問しなかったということは、あの場面はひょっとして現実ではなかったかもしれない。
 あの小さな、使われていないかのように見える不可解な橋を、市の予算をもってわざわざメンテナンスするなど、常識からいってちょっと考えられない。とすると、スノコの木も、格別新しくはないような気がしてきた。まあ、あれ以来、またずいぶんと日がたっては いるけれど。
 そんなことを考え考え、近づいて よくよく見れば、そのスノコには土による汚れが ついていた。それが人間の足跡に 見えないこともないが、はっきりしない。ネコの足跡にしては大きいので、そう思えてくるだけであって、ネコたちがあちこちにたくさん足跡をつけたように見えなくもない。少なくとも靴底の形は確認できなかった。
 地図で探したところ、ネコの橋は記載されていなかった。その時初めて知ったが、この小川には「マーバッハ」という 立派な名前が ついているのだった。それでいてネコの橋は地図上に存在さえしないとは、まるで 架空の橋ではないか。いっそ市役所に 問い合わせてみようか。土木建設課にでも聞けば、きっと謎が解けるだろう。

 ところが、そんなある日。(つづく)

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ネコの橋(3)「これは明らかにネコの橋!」



 (前回からのつづき)そして普通の大人の体重は耐えられなさそうな、鉄製とはいえ、かなり華奢な作りに見える。工事か調査かで何らかの
作業をするために、わざわざ付け加えた橋なのかと私は推理していた。が、この頼りなさゆえに、この説は消去された。

 あれは歩行者用ではないかという友人がいて、確かにスイスの別の町では、頑丈な橋のすぐ横に、木の桁橋が 取り付けてあるのを 私も見たことがある。しかし、その橋は手すりに通せんぼされることなく、普通に歩いて渡ることができる、欠陥のない自然な作りの橋だったのだ。 こちらの橋は(山奥の谷川にかかる吊橋じゃあるまいし)、まず 大人には幅が狭すぎる。何より大人が渡ろうとするなら、足を高く持ち上げるか、または大きく身をかがめるなどして、限りなく不自然な姿勢をとらなければならない。たいして交通量も多くない、ゆえにあえて歩道が設けられていない こんな道路で、たかだか2~3メートル幅のこの川の上だけ、今まで歩いてきた道をわざわざ外れて、この歩道もどきの橋を渡ろうという歩行者が、一体いるだろうか? 私は一度もお目にかかったことがない。

 しかしながら、この橋には存在理由がある。実際に使用されているのは明らかだ。スノコの木の張り替えというメンテナンスがなされているのが、その証拠である。お役目を終えて今はその名残のみ、といった過去の遺跡ではない。「危険!渡るな!」との表示があるわけでもない。
ましてやここは静かな住宅地、観光客を狙った意味のない建設物など、こしらえる必要はないのである。

 ふざけているのでも何でもない。その橋はどこからどう見ても、ネコのために 架けられたとしか思えない。  その大きさと いい、通りにくさと
いい、あれは人間のためではない、ネコにぴったりである。
 嗚呼、あの時、床のスノコを張り替えている男性に、どうして私はたずねなかったのか。この橋は一体、何のためにあるのですか? これじゃ
どう見たって、ネコの橋じゃないですか。

 ここまで考えて、私ははっとした。(つづく)

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