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1月3日 珍しく、家にいた(7)「ドイツ語なんて、キャベツ!?」

(前回からのつづき)ドイツ語に関して、この冬休み、春香にはちょろっと読書をさせただけで、あとは特に何もしなかった。ずっとイタリア語漬けで、私とは日本語をしゃべっていた。イタリア語は多少上達したかもしれない、少しは新しい語彙を獲得したかもしれないが、これから学校が始まるのだから今はドイツ語に頭を切り替えてほしい。
 夫はそういった点について、何にも考えていないのだとよくわかった。子どもの言語について、両親が直接サポートできないのなら、せめて一緒に映画を鑑賞するという機会をもっと作ってもいい。しかし夫に言わせれば、自分が楽しめないなら意味がないのである。
 夫には、娘が授業を理解できなくて困っているのではという懸念は一切ないらしい。ローマ人の夫の、この楽観主義は時にあきれるほどである。もちろん、我が子の可能性を信じることは大事だが、家で何もしなくていいとは絶対に思えない。家庭でのサポートがあってこそ、楽観も初めて許されると思う。よその家とは違って、我が家はマイナスからのスタートだという、ドイツ語のハンディについてもっとよく認識してほしい。私だってできることには限界がある、いかなる場合も日本語でしか説明してやれないという矛盾はあるが、だからこそ私に任せきりという夫の態度が時として非常に腹立たしい。
 さらに「ドイツ語なんてキャベツの言語だよ(何の価値もない言葉、とでも訳すべきか?)」などと春香の前で言うのはやめてほしい。たとえ本当にキャベツだと思っているにしても、ドイツ語が学習言語である春香にとって、そんな言葉はマイナスにしかならない。ドイツ語から逃れられない状況にある春香に、わざわざそんな意見を聞かせる必要があるだろうか? 

 こんな私の苦悩とは裏腹に、夫は帰省中ますますイタリアへの望郷の念を深めたようなのだ。スイス人社会には人々の「会話」がないということに、もう堪えられなくなっていると話していた。確かにこれは言語レベルの問題ではない、それ以前の、国民性の問題である。イタリアにいると、道端でもバスの中でも、友達の友達と、親戚の親戚と、あるいはまったく知らない人とまで、自然に会話が生まれる。スイスにいると、そんな機会は確かに少ない。挨拶だけは欠かさないが、それ以上に発展することは稀である(私のドイツ語レベルが低いということもある。夫は英語で堂々とおしゃべりを始めるので。私といえば多少ドイツ語を学習したというプライドが邪魔して、どうしても英語に逃げることには抵抗がある)。
 日本人の私は、道端で会話が生まれなくても、それほど気にならなかったのだが。イタリアでは、買い物帰りにご近所さんにつかまり、忙しいのに身動きがとれずイライラするなんてことがよくあったので、どこも一長一短だと思う。しかしイタリアに生まれ育った夫は、いつも通りに挨拶しようとした時でさえ、気づかないふりをされることがあると嘆く。
 日本人だって、急いでいる時や顔を合わせたくない時などに、知らんぷりをすることはあるんじゃないかな…と思うので、私は夫ほど絶望することはないのだが。
 さらに私たちは言葉ができない分だけ、会話が生まれそうな場に居合わせる確率も少なくなるわけで、夫はますます違和感、疎外感をいだくことになるのだった。

 もしイタリアに住むとなれば、娘の宿題を私たちが問題なくサポートしてやれる。私の伊和辞典も和伊辞典も、まだ手元に残してある。今はネットだって相当使える。
 かといって、イタリアに戻るには、夫の仕事が見つからない。…そして、嗚呼、お義父さまとお義母さま、ならびにご親戚一同が。少しでも距離を保っておきたい私としては、娘の教育問題をふまえても、イタリアに引っ越すというのはなんとも悩ましい選択肢なのだ。
 いや、私が決めるわけではないから、悩まなくていいか。最終的には、夫が決めるのである。こんなことを悩むだけ、時間の無駄だ。
 せいぜい今は、スイスでの自由な生活を楽しむことにしよう。と、私に関しては思う。……しかし、春香は。(おわり)

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