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泣いた春香のあやし方


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 一枚のCD

 それは、友人の明美さんからの誕生祝いだった。私ももらって良かったからと、日本の童謡を集めたCDを送ってくれた。当時、春香は2ヶ月にも満たない。いつ頃一緒に歌えるようになるかなと思いながら、本棚にしまった。
 数日後、夫はいつもの通り空手の稽古をしながらベビーチェアに座る春香を見ていたが、ふと思い立ってこのCDをかけてみた。すると、反応があることに気づいたのである。こんな小さな子でも歌で喜ぶとは、また一つ新たな発見をした。CDをかけておくだけでいいなんて、こりゃ楽だとその時は思った。

 ところが歌に身振り手振りをつけてみると、ますます喜ぶ。幼い頃バレエを習っていた私は、即興ダンスをつけて歌うことにした。猫のように、どんな動きでも目の前にあるとつい目で追ってしまうらしい。目を丸くしてじっと見てくれる。
 そのうち、お気に入りを歌い踊り始めると、目を輝かせ口を開け、満面の笑顔で両手をばたばた振り回すようになった。CDをかけっぱなしではこうはいかない。高齢出産後、体力は落ちる一方だが、かわいい我が子のためなら動かない体にむち打ってでもやるほかないのだ。

 歌って踊る父母

 お気に入りというのは、まず「おにのパンツ」。はこう、はこうというところで片足ずつ上げ、パンツをはく真似をすることにした。かなりの運動量になる。
 オリジナルはご存知「フニクリフニクラ」、登山電車について歌ったナポリ民謡だが、イタリア人の夫に日本語の歌詞を訳したところ、あきれられた。が、春香は「フニクリ、フニクラ~」より「あなたも、私も~」の方が好きなのである。

「おべんとうばこのうた」。かつて、姪っ子が歌っていた横で私も合わせて歌い、「歌っちゃダメ! みーたんがママと一緒に歌うの!」と怒られていた、この歌。今こうして我が娘に歌っているとは、感慨深いものがある。
 春香はこの歌が大のお気に入りで、「これっくらーいのっ」と聞いただけで泣き顔もあっという間に笑顔に変わる。もちろん、おべんとうの中身は私が手振りで見せる。

「こぶたぬきつねこ」。特に2番の「ブーブー、ポンポコポン、コンコン、ニャーオ」がお気に入り。
 さらにニャーニャー、ニャン、ニャニャニャーン、と動物の鳴き声をひたすら真似するだけで、春香はにこにこしながら聞いていてくれる。日本語よりも動物語のほうがよほど理解できるらしい。

「とんでったバナナ」。日本で小田急線に乗った時のこと。ひざに抱いていた春香がぐずり始めた。歌うのが最も効果的でも、そこは満員電車の中。が、東京ではどこへ行っても人混みなのだ。その日は荷物も多く、途中下車も困難だった。歌以外のあやし方を開発していなかった私は、やむを得ず、春香の耳元でお経を唱えた。「バナナが1本ありました~」と。
 スコットランドでは誰も日本の歌など知らないから、音を外そうが歌詞を変えようがお構いなしだ。が、日本ではそうもいかず。春香のみならず、乗客のみなさまにもお聞かせしているような形になった。ようやく寝てくれたのは新百合ヶ丘、そこで聴衆のほとんどが下車していった。

「ヤンチャリカ」。ロシア民謡調なので、当然振り付けもロシア風ダンスをと思ったが。腰を落とし、右、左と足を前に出そうとすると、すぐに足がつりそうになる。まだ若い夫に協力を頼んで、二人で並んで踊るといくらか格好がつく。
 春香は両親をかわるがわる見ながら、口を開けて聞き入っている。

 もっと静かな歌もある。「おかあさん」は私が好きで何度も歌っているうちに春香も喜ぶようになったものだ。「おかあさん」「なあに?」「おかあさんっていいにおい」・・・私が母親の優しいイメージを植えつけようと努めて優しく歌うので、おそらくそれが伝わるのだろう。
 この歌に限らず、歌う時は春香の目を見ながら気持ちを込めて歌うと効果抜群。野菜を刻みながら適当に歌っていると彼女は不満なのだ。

「山のようちえん」。激しく泣き叫んでいても、抱っこしてこの歌を歌ってやると何故か泣きやむことが多い。ワルツに合わせて体を揺らしながら、背中をトントンたたくのだ。成功率は実に八割。それに気づいて以来、「す~てきな山のようちえん~」と歌い続けている。
 ただ歌い終わればまた泣き出すので、300回ぐらい歌ってしまった日もあった。

 お気に入りはまだまだあるが、寝かしつけはやはり「ゆりかごのうた」である。

(続きは書籍にてお読みください)

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笑った、笑った!

 好きだけど夢中になれない赤ちゃん

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 赤ちゃんを端から見ているのは好きだったが、あやすのは苦手だった。じっと見つめられると、何もかも見透かされているようで落着かない。退屈させていたらどうしようと、責任を感じたりもする。しかも「ばあ!」と両手を広げながら赤ちゃんの反応を待つ時の、きまりの悪さ。横で誰かに見られていたりすると、「赤ちゃんは好きだけど、うまく可愛がれないの」と戸惑っている自分が見破られそうで恥ずかしい。いっそ無関心を装っていた方が気が楽だった。赤ちゃんに夢中になり、周囲がまったく目に入らなくなるという感覚を経験したことがなかった、ということもある。
 二十年以上も前の話だが、友達のむうさんに女の子が生まれ、皆で遊びに行った時のこと。仲間の中で、特にあきちゃんの可愛いがりように私は圧倒された。ずっと赤ちゃんの相手をしていて、全く私たちの会話に入ってこない。いつまでもうっとりと見入っている彼女の優しい目つきを今もよく覚えている(ちなみに、あきちゃんとはイラストレーター「こうのあき」。赤ちゃん好きが昂じて、現在なんと四児の母!)。

 我が子と初めて目が合う

 時が過ぎ、自分の子供が生まれた。
 初めて知ったことだが、生まれたての赤ん坊というのは母親とさえ視線を合わせない。たまたま目が合ったとしても、何故かすぐにそらしてしまうのだ。
「春香ちゃん!」私は注意を引こうと手を振りながら、日に何度も呼びかけた。「お母さんよ! お母さん、ここよ!」彼女の視界には入っても、目を見てもらえない。命綱である母乳を飲む時でさえ、乳首が探せなくて口を開けたまま首を振り、うろうろしている有り様だった。もちろん表情などほとんど変わらない。それでもこっちは常に必死で観察しているから、ごくわずかな変化も読みとって一喜一憂していたのだが。

 最もわかりやすかったのは、眠りにつく時に見せる微笑みだった。生理的微笑というのだそうで、目を閉じたまま、口の端をかすかに上げるのだ。確かにそれは笑顔に見えるので、うちの子は生まれて三日しかたっていないのにもう笑う、と有頂天になってしまった。
 あの頃の春香が夢中になっていたものといえば「おっぱい」をおいてほかになかったから、授乳後うとうとしながら口の端を上げているのは「この甘い味、たまらないね」「とろりとして、あったかくって」などと言っているように思えた。
 
 そんなある日、春香と初めてしっかり目が合った。三週間がたとうとしている時だ。視線がこちらに向けられた瞬間、ドキッとしてしまったのである。自分の子に見られたくらいで、まるで初恋のように心臓を揺すぶられるとは。
 その後も、母親だと認識してもらいたい一心で、ひまさえあれば彼女の視線の方に顔を持っていき、手を振り、語りかける日々が続いた。
 
 本当に笑う?

 一ヶ月になる頃、私は体調をくずし寝込んでしまった。世話に来ていた両親や義父母が去り、お客さんラッシュも過ぎて、緊張の糸が切れたのかもしれない。下痢が悪化し、とうとう何も食べられなくなり、授乳以外の一切の世話を夫に任せて床についた。
 その頃である。夫が「今、笑ったような気がする!」などと言い出した。現場を見ていないので半信半疑だったが、何度もそう言われ私はあせり始めた。そんな、母親はこの私なのに。私だけに笑ってくれるんじゃないの? 夫に「マンマは、ただのラッテリア(牛乳屋さん)!」とからかわれても、返す言葉がなかった。
 三日後、私は何とか起き上がれるようになり、夫は大学に戻った。私は巻き返しをはかるべく、春香と遊ぶことに励んだ。目を見て語りかける時は、夫の言うように「は・る・か」とゆっくり発音してみた。また顔を近づけ、お腹をくすぐってもみた。
 その結果、ほんの二秒ほどだが、こちらを見て「にいっ」と笑ってくれたのだ。私は息をのみ、すぐさま夫に報告の電話を入れた。
 そのうち、私がちょっと一息入れると、「もっとやって」とばかりにぐずるようにまでなったのである。
 
(この続きは、書籍にてどうぞ)

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春香手術

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 はしがき
 
 二○○八年に起こったニュースとして、春香が手術したことをクリスマスカードに書いた。私にとっては今でも記憶が生々しい、昨年最大の事件だったのである。
 ところが、実際はそんなに珍しいことでもないらしい。何人もの方から「うちの子も手術しました」とのお便りをいただいた。入院・手術を経験する幼い子供は、実際かなりの数にのぼるようなのだ。私自身は出産時が初めての入院だったくらい病院には無縁な人間なので、そういった事実を知らなかった。
 中でも驚いたのは、私の従妹の可奈さんの体験談で、日本の小児病棟は子供の面会が謝絶だそうである。可奈さんは次男の壮太くんの手術に付き添っていたので、まだ四歳の長男・圭太くんは、母親である可奈さんになんと二週間も会えなかったそうだ。家族親戚一同がほぼ毎日のようにやって来るという、大変にぎやかな病院にいた私には、とても信じられない話である。

 今年もまた夏がやってきて、私は去年起こったことを日付と共に正確に記憶していることに気づいた。今年の七月二十一日(去年のこの日が、すべての始まり)、春香は有り難いことに健康で、子どもカンフー教室に通っていたのだった。その後、三十日(去年はイタリアへ出発した日、今年はプール教室に参加)、そして八月四日(去年のこの日に手術。今年は熱でプールを休みはしたが、おなじみの扁桃炎。翌日には回復)と、いちいち思い出しつつ、夫にさえそのことを言えなかった。反省はしていますが、もうそっとしておいて下さい、そんな気持ちである。
 それでも、起きたことを途中まで書いておいて、それがそのまま未完だったことに気づいた。七月二十一日から八月いっぱい、ちょうど日本の夏休み期間にあたる長期療養だったので、克明に事実を追っていったら、とてつもない長文になりそうなのだ。幼稚園のこと、言葉のこと、ほかにも書くべきことはたくさんあるのに、今になって四歳の面白くもない出来事を書いて掲載するのもどうかと思うし、何よりこれは私にとって育児中最大の汚点。もう記憶から記し去りたいとさえ思える。
 が、せっかくだから、何とか最後まで書いてみようと思う。春香が今でも生きていることを感謝したくなるのは、あのことがあったからだと思うから。そう、普通の母親ならそんな体験などなしに、我が子を大事に育てていけるのに。私には、そこまで荒療治が必要だったということだ。

                *  *  *  *  *

 八月四日月曜日。その日もローマは暑かった。道を歩いていると、じりじりと照りつける太陽が熱い空気を上から押しつけてくる。ローマの古びた家々、遺跡のかけら、ゴミが散らかった道端など、ぐらぐら沸騰しそうな、そのローマの街を、私は冷房の効いた病院の窓から眺めていた。そして、ハンカチを握りしめ、声を殺して泣いた。誰にも涙を見られたくなくて、仕方なく窓の外を見ていたのだった。
 もしも、手術がうまくいかなかったら、もしも全身麻酔のまま目を醒ましてくれなかったら。もしも、春香が今、ここで死んでしまったら。私の人生は、もはや何の意味もなくなってしまう。それほど私というものは、くだらない、価値のない、生きていても意味のない人間だった。春香の存在だけが、ただそれだけが尊くて、自分というものの卑劣さ、無力さ、無知、怠惰、残酷、軽薄・・・・・、どれだけ並べてもまだ足りないくらい、自分を責めた。
 たった一つ、こんな私が人生の中でなしとげた意義あること―――それは春香を産んだことではなかったか。それなのに、どうしてここまで冷酷になれたのか。まったく自分で自分が理解できなかった。
 私は強情だったのだ。私は意地でも、義父母に従うまいと決めていた。言い訳が許されるなら、いくらでも言い訳できる。それでも実際のところは、「あの人たちの言う通りにはしたくない」、その一点張りだった。娘の痛みを思いやることもなく。
 それが原因で、春香は急性虫垂炎から腹膜炎になり、あと一歩で手遅れになるところだった。

(この続きは、書籍にてどうぞ)

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三歳の春香の言語状況

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 前回、春香の言葉について書いたのは、スイスに越してきた後だった。現在三歳、もうすぐ四歳という時に日本に行く予定だということで、慌てて書いている。

 このひと、英語しゃべってるね

 まず、これはもう最後になると思うが、春香の英語について。知っている単語は、ほとんどすべてビデオで覚えたもの、という状態になってしまった。日本語のビデオなのに、なぜか英語を学ぶコーナーがあり、それで覚えるのである。英国で買ったビデオもあるのでたまに見せるが、それだと単語を拾えないらしく、歌を少し覚える程度。要するに、英国生まれという影響はもはやまったく見られず、ほかのお子さんと変わらない。
 ただ一つの特記事項は、バスや街中で、英語圏出身の親子がいて話していたりすると、「このひと、英語しゃべってるね」と言うようになったこと。ということは、聞いていて、これは何語かという区別がある程度はついているはずなのだが?? まあ、とりあえず、先をお読みいただきたい。

 さて問題の日本語だが、去年の夏に一ヶ月日本に滞在した。語彙はもちろん増えたにしても、特に大きな変化は見られなかった。特記事項をあえて挙げるなら、子供らしい悪い言葉を多く覚えてしまったこと(今ではその多くも忘れてしまっているが)。
 名詞のみならず、乱暴な表現というものまであって、なぜか「……って言ってるんだよ!」と言うのを覚えてしまい、それが癖になって、周囲に多大な迷惑をかけた。そんな強い言い方をどこで覚えたのか、いや、実家に私と父母といて、時々姉・弟家族も来たら、絶対にそこで聞いたに決まっている。平川家は(義兄と義妹以外)全員声が大きく、しかもかなり感情的なのだ。とはいえ、「……って言ってるんだよ!」を春香がそれほど頻繁に耳にしたとは思えないのだが。聞くたび非常に気に障るので、やめるよう何度も注意したが、癖になっていて、なかなか直らなかった。
「……って言ってるんだよ!」と言うのは、さんざん言った後で、相手の理解が得られないことにイラつき、やむを得ず発してしまう、そんな表現ではないだろうか。それを開口一番、「はるか、テレビみたいって、いってるんだよ!」とくるので明らかに誤用なのだが。そんな乱暴な表現のわりには、表情も口調も特に迫力はないのだが。いずれにせよ、聞くに堪えない。これには参った。

 ドレスに言葉は要らない

 スイスに戻り、十月に入って、ドイツ語学校の開講日が近づいてきた。私は春香に毎日、「もうすぐドイツ語の学校に行くんだよ。早く行きたいね。またお友達みんなと遊んでね」などと言い聞かせた。
 ところがある日、「はるか、ドイツ語のがっこう、いきたくないの」と言い出すではないか。あれほど楽しそうに通っていたのに。理由を聞いてみると、洋くんがもう来ないからと言う。洋くんとは、託児所唯一の日本人で、春香とは子供会、託児所、ひよこで一緒だった。けれども帰国が迫っていたので、コースは継続しないとお母さんが決めてしまわれたのだ。
「でも、新しいお友達がきっとできるよ。ほかにもお友達いっぱいいるでしょ」「でも・・・、はるか、洋くんがすきなの。洋くんがいないといやなの」実際のところ、洋くんは戦いごっこ好きの典型的な男の子で、春香とそれほど親しく遊べるわけでもない。一緒にじゃれ合ってかけっこをすることはあったが、ずっと一緒にくっついて遊ぶなんてことはなかったのだ。春香が洋くんに好意を寄せるのは結構だが、いないなら嫌だと言うほど、心奪われているとは思えない。私が戸惑っていると、やがて、春香はポツリと言った。「はるかね、ドイツ語しゃべれないの」
「そんな、春ちゃん! ドイツ語なんかね、毎日聞いてれば、わかるようになるの。しゃべれないからこそ、学校に行って勉強するんじゃん。しゃべれないからって行かなかったら、ますますわかんないよ」私はまるで自分に言い聞かせるかのようなことを言った。「これからずっと、スイスに住むのに! ね、春ちゃん、一緒に学校行こうよ」すると春香は顔をしかめ、こう言った。「はるか、おうちでべんきょうするから、いいの!」(何を! 家でできないから、高いお金を払って通学するのではないか!)
 まさか春香がドイツ語を理由に行きたがらなくなるなど、思ってもみなかった。託児所の初日、私を振り返ることなく、さっさとみんなのいる方へ歩いていった春香。その背中を見ながら、私は誇らしい気持ちでいたのに。言葉がわからなくても、お友達と遊べるんじゃなかったの?
 春香が行くのを嫌がるのなら、私もくじけそうになる。毎朝、行きたくないと泣く娘を引っ張って連れて行く鉄の意志が、私にはないのだ。

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授乳より献血

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 今年も、残すところあと少し。夫の就職活動が長引いた関係で、英国滞在を延長することになった。ところが許可申請の際にパスポートを提出したため、海外に出られず。里帰りができなくて寂しい年となった。トイレトレーニングも始めてはみたものの、予想外に難航している。さらに台所へ蟻が侵入、壁や床の穴をふさいでもふさいでも現れる黒い軍団との果てしない戦い。その他にも思い出したくないことはあり、一時は厄年か天中殺かと途方に暮れた(知ってもどうにもならないので調べていないが)。
 笑顔を作ることもしんどくなってきて、人と会うのも面倒なほど。日記の中で、小さな喜びを数えることが日課となった。あの世紀の楽観主義者である夫も一時はイライラしていたくらいである。
 そんな両親に八つ当たりされながらも、春香は相変わらず明るい笑顔を惜しげなく振りまいていた。闇に包まれた家庭を明るく照らす、蛍光灯のような娘なのだ。春香がいて本当によかった。この時ばかりは心底から娘の存在に感謝したくなった。

 街角で偶然出会った旧友

 さて、暗い日々からほんの少しだけ晴れ間が覗いてきた、そんなある日。またもや、献血のお知らせが届いた。来週の火曜日、シティセンターのホールが会場とある。
 私は数日前にある決心をしたのだが、これにより、この決心はますます確固たるものとなった。

 日本で、私は喜々として献血を続けていた。誤解される前に言っておくが、人々のお役に立ちたいからというのではない。立ちたくないとは言わないが正直に言うと、ただで飲食できるからである。ケチな私は、いくら疲れていようが喉が渇こうが一人で喫茶店に入ったりしない。私にとって献血ルームは、言ってみれば無料喫茶店なのである。
 順番を待つ間、冷房の効いた部屋で、ゆったりと座って雑誌なんぞ読んでいられる。自分の番が来たら、横になってうたた寝もできる。中には自分専用の小型テレビが備え付けてあるところもあり、まるでビジネスクラスの機内である。献血後は、お疲れさまでしたという暖かい言葉と共に、好きな飲み物を選べ、おいてあるお菓子が食べられる。景品も頂けて、血液検査の結果まで後日送られてくる。こんないいことずくめの献血を、どうしてやめられようか。
 海外に住むようになってからも、私は帰国のたびに献血に努めた。定期的な健康診断をしない身としては、こんな血液検査でも気休めになるのである。かくして私は献血二十回、三十回と記録を伸ばし、ティッシュやバンドエイド、バッジなど、景品のコレクションも増やしていった。
 ところがある日突然に、私の献血の喜びは終わりを告げた。狂牛病の影響で、英国に半年以上滞在した者の血液は受け付けないと言われてしまったのである。嘘をつくわけにもいかず、私はあきらめて帰途についた(が、しっかりとお茶菓子はいただいた。勧められたので、断れなかった)。
 当時、私は英国留学からイタリアに戻り、ローマで働いていた。私の知る限り、イタリアには街頭で人々に呼びかける献血車のようなシステムはなく、自ら病院に出向くしかない。忙しかった私は、いつしか献血への想いを失くしてしまった。
 
 その想いが去年、突如よみがえった。ここダンディーの街を歩いていて、シティーセンターホールの前で献血を呼びかける人を見た時は、旧友に偶然出会ったような気がしたものである。その日は時間もあったので、私は数年ぶりに献血の世界へ足を踏み入れた。ここ英国なら、断られたりしないだろう。
 ところ変われど、献血は変わらず。ここでもボランティアらしき人が、親切に誘導してくださる。私は当時一歳を過ぎた春香を連れて、会場へと入っていった。歴史的な建物の中に設置された広い会場では、人々が腕をまくって献血に参加している。私は久々に心が沸き立った。
 ベビーカーを横付けして席につき、まずはアンケートに記入する。そして名前を呼ばれ、少量の血をとられ、血圧を測り、簡単に話をする。私の血は濃くて良い血だと、何度かほめられたことがある。が、低血圧で断られたことがあるので、OKが出るまでは安心できない。
「お子さんは、おいくつですか」
「一歳です」
「現在妊娠していますか」
「いいえ」
 これらのやりとりに、余裕を持って答える。ところが、事態は予期せぬ方向へと向かった。
「現在授乳していますか」
「はい」
「あ、そうなの。じゃあ、やめておいた方がいいわね」
「えっ、あの、一日に一、二回くらいで、量もほとんど出ていないと思うんですが」
「それでも、血をとるんだから。授乳が終わったら、また来てください」
「・・・はい・・・」
 それでも、やっぱりお茶菓子はいただいた。会場を出る人は、献血したか否かに関わらず、全員ティールームへと誘導されるのである。私も遠慮なく席につき、ミルクティーと一緒にショートブレッドをほおばった。隣のテーブルでは、まるで喫茶店のように、おばさんたちが席を陣取って話に花を咲かせていた。

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